子供のころ、夏休みにふるさと美濃町に里帰りすると必ず祖母の口からは、1945年7月9日の岐阜市の空襲のことを聞かされました。 私の母方の実家は徹明町で運送業(岐阜市で初めてトラック輸送を開業していた)をして生計を立てていました。 祖父はその日、東京へ所用で不在だったそうです。 その夜、2度、空襲警報が発令され、祖母は私の母を含む7人の子供を抱え、そのたび防空壕へと走りました。 1度目は解除となり、2度目も「またか」という感じだったそうです。 しかし、ひゅるひゅるひゅる〜と気味の悪い音とともに落ちてきたのは町や人を焼くための焼夷弾でした。 壕に入っていれば助かると信じて、近所の人たちと身を潜めていたところ、消防団の人たちが「火の手がそこまで来ている、そんなとこにいたら、焼け死ぬぞ!」 ニ、みんなを引っ張り出して真っ暗闇の中、金園町から琴塚あたりまで走ったそうです。 炎に追われ、泣きじゃくり走れなくなった私の母は消防団の方が背負ってくれたそうです。 母は、その方の鉄兜が火災で焼けて、熱かったことが今でも忘れられない。 心の中でいつも助けてもらったことを感謝していると言っています。美濃町線廃線から9年半、この道に軌道があったことも薄れていき、第2次大戦終結から69年、この道を命からがら逃げ惑った記憶も語り継がれなかったら、とてもさみしい。 とても悲しい。私たちは電車の写真を通して、この町の歴史や、楽しいことを語り継いでいきたいものです。 この先もずっと!!
名鉄電写CVN−78さんおはようございます。。廃線からもう9年半になるのですね。走っているのがつい昨日のように思い出されます。。このモ-590の白金行きは平日の朝一便だけでしたね。津保川橋梁で待ち受けて撮影をしたものです。